田中 耕太郎
最高裁判所長官時代
「田中耕太郎-生きて来た道」
兒島喜久雄画
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明治41年中学修猷館を卒業後、第一高等学校、東京帝国大学法学部へと進学し、大学を首席で卒業。その後、東京帝国大学法学部教授、法学部長を歴任し、第一次吉田内閣の文部大臣として、教育基本法の制定に尽力した。 その後、昭和25年から10年間、最高裁判所長官を務め、最高裁の基盤を作った人物でもある。 さらに、昭和36年より、国際司法裁判所判事としてオランダのハーグに活躍の場を移し、9年間在職した。
国際司法裁判所判事時代
「桃李言はざれど下自ら蹊を為す」 司馬遷が「李将軍列伝」(史記)より
(訳) 桃やすももは何も言わないが、その果実に誘われて人が集まってくるので、その下には自然と小道ができる。
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