廣田 弘毅
修猷館第10回卒業生(明治31年)。明治11年2月14日福岡市鍛冶町の石屋の長男として生まれる。大名小学校、修猷館を経て一高、東大法に進み外交官となる。
昭和8年(1933年)斎藤実内閣の外務大臣に就任し,続く岡田啓介内閣にも留任した。昭和11年(1936年)2月、二・二六事件によって岡田内閣が総辞職したのち,三月五日,内閣総理大臣となった。本校出身初めての首相であり,福岡県出身としても,初めてのことである。太平洋戦争後極東軍事裁判において唯一文官のA級戦犯として他の6人の軍人と共に処刑された。主な罪状は、日中戦争開戦と南京大虐殺の責任であった。廣田氏は外交官時代から一貫して平和外交をねばり強く進めたが、当時の軍部は統帥権を盾に暴走し、尽く廣田首相の融和路線、不拡大路線を妨害し戦争拡大へ走った。しかし裁判において廣田弘毅はいっさい弁解をせず、責任を一身に引き受けた。この間の経緯については城山三郎氏の著書「落日燃ゆ」に詳しい。廣田夫妻の墓は聖福寺にある。