創立以前
年 号 | 沿 革 摘 要 |
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慶長5年 (1600) | 第9代藩主斉隆なお幼少であったので、重臣等相謀り先主の興学の志を受け継ぎ、これを実現させるために 6月24日 竹田定良・亀井魯を召し、おのおの居宅の近くに学校を創建することを命じた。 |
寛文4年 (1664) | 貝原篤信(益軒)藩の儒官となる。 後年、藩校修猷館の総受持(館長)を出した竹田家は、その学風の主流であった。 |
宝暦12年 (1762) | 亀井魯(南冥)亀井塾を開く。藩の儒医 徂徠学派の碩学、英邁豪放にして、門下から人材が輩出した。 |
明和6年 (1769) | 第7代藩主 治之 封を継ぐ。治之は学校設立を計画し、一方また亀井南冥の建白もあったが、ついに果たさずして世を去り、第8代藩主 治高も、治封1年足らずで死去した。 |
天明3年 (1783) | 第9代藩主斉隆なお幼少であったので、重臣等相謀り先主の興学の志を受け継ぎ、これを実現させるために 6月24日 竹田定良・亀井魯を召し、おのおの居宅の近くに学校を創建することを命じた。 |
藩校時代
年 号 | 沿 革 摘 要 |
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天明4年 (1784) | 1月 唐人町に亀井の甘棠館(西学問稽古所)大名堀端城の東門前に竹田の修猷館(東学問稽古所)竣工。 2月6日 修猷館開館の儀を行う。初代総受持は竹田定良。学規19ヶ条あり漢学を専修せしむ。 修猷の名は尚書「微子之命」中の句「践脩厥猷」による。 |
寛政7年 (1795) | 4月 清の人、趙佑、依頼により「修猷館」の扁額を書く。 |
寛政10年 (1798) | 第10代藩主 斉清 封を継ぐ。治封40年。 当代有数の本草研究家で、著書もあり、学問を奨励す。 |
文化11年 (1814) | (久留米に明善堂創立) |
文政7年 (1824) | 2月 甘棠館焼失。 6月 甘棠館の教師を罷免し、生徒は皆修猷館に編入。学制を改め教師を優遇す。 6月23日 竹田定良死す。61歳。 7月 修猷館の敷地に武術稽古所を設けて、武術百般、調馬、発砲を練習させ、文弱に陥ることを防ぐ。 |
明治元年 (1868) | 3月 亀井南冥死す。72歳。(自宅火災に遇い、端座して焚死すという) |
明治4年 (1871) | (12月 柳川に伝習館創立) |
明治4年 (1871) | 黒田長溥 第11代の封を継ぐ。 長溥は特に学問奨励に心を用い、常に新文化に注意を怠らず、洋学導入に努め、藩の子弟の教育に終生絶大な熱情を傾けた。治封35年、その間、私金を以て多数の優秀な藩士を江戸・大阪あるいは長崎に遊学させ、さらに海外にも留学生を派遣した。後に修猷館の再興に尽力した金子堅太郎も、米国に派遣された藩校修猷館出身の青年藩士の一人であった。 |
明治4年 (1871) | 6月 長溥、居館の一部をさいて学校文武館をおこし、進歩主義に則って国学・儒学・算術・武芸を修めさせた。 |
明治4年 (1871) | 3月 文武館の隣に演武場を増築して修猷館と合併し、藩学校と名づけて開校し、文武館を廃す。 10月25日 藩学校教師を罷免し、蔵書万巻、什器一切を県庁に納入して、藩校を廃止する。 天明4年よりここまで87年10カ月。 |
再興過渡期
年 号 | 沿 革 摘 要 |
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明治14年 (1881) | 明治11年から県内に中学設置が具体化しはじめ、12年には福岡・柳川・豊津・久留米の4学校が発足、13年には6中学13分校に増加したが、県立中学校は入学年齢に制限があり、学費も高かった。これより先筑前においては、新時代に対処する種々の結社・私塾がつぎつぎに起こっては閉鎖され、これらの諸塾の発展的統合体ともいうべき向陽義塾も、1月7日閉鎖され、10日には私学藤雲館が開校された。藤雲館は黒田家の援助のもとに、修業年限3ヵ年で県民の子弟に法律・英学を教授する専門学校であった。 |
明治17年 (1884) | 県財政困難のため、5年以降、年々県立中学を減らし、17年には県会は福岡・久留米・豊津の3校だけを残すことを協議した。 |
県立修猷館
年 号 | 沿 革 摘 要 |
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明治18年 (1885) | 1月 黒田 長溥 侯爵、生活に苦しむ旧藩士救済の方策として、「学校設立が最も有効かつ黒田家の恩顧が末永く及ぶ道である。」という金子堅太郎の献策を採用して、修猷館再興のために金子堅太郎と県当局及び福岡の旧藩士との種々協議の末、藤雲館の校舎・什器一切を黒田家が購入し藤雲館を廃館して、そのあとに修猷館を再興することが決まった。 5月30日 福岡県令は福岡県立修猷館設置の旨を告示。 9月10日 開館式、第1回入学生43名、再興当初の校名は英語専修修猷館。修業年限3ヵ年、英語専修を目的とし、英読本・英米史・数学・理科等の科目を英米の教科書で勉強した。名は県立でも、明治26年に県費補助となるまで、費用は全額黒田家の負担であった。 |
明治20年 (1887) | 3月26日 夜本館より出火し全焼。 4月 旧警固小学校で授業再開。 6月 文部省規定による普通学科を加え、専ら英語教科書で教授する。 7月 地方有志集まり、校舎新築を協議する。 |
明治21年 (1888) | 1月 黒田長知、黒田家貸費生制度を設く。 5月 筑前の有志が、黒田家の篤志を承け、修猷館を拡張維持するを目的とし、各郡内人民義捐に係る資金より生ずる年々の利子を県知事に寄付するために修猷学会を組織。( 明治27年7月、同会は業を終え、約4万円を黒田家に一任、黒田家はその金利のほか毎年多額の金員を県庁に寄付して修猷館の経営費にあてた) 7月 警固の仮校舎で第1回卒業式、卒業生4名。(県会、県立中学校廃止を決議) |
中学修猷館
年 号 | 沿 革 摘 要 |
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明治22 (1889) | 3月 福岡県立尋常中学修猷館と改称。廃止された福岡尋常中学校の生徒146名を併合。5年制度になる。 3月15日 かつての藩校修猷館跡、大名町堀端に旧師範学校校舎敷地が無償下渡となり、移転。 |
明治24 (1891) | 8月 金子堅太郎の勧誘により、教職員と卒業生の会、修献館館友会を創設、その会報は後の同窓会雑誌の萌芽となった。 |
明治25 (1892) | 12月 制帽をドイツ帽型に変更し、幅の広い白線を加え、六光星の徽章を制定す。星は朱舜水撰「楠公賛」の初旬「日月麗乎天」にヒントを得たものである。 |
明治27 (1894)) | 11月 生徒数680名(5年30名、4年53名、3年106名、2年184名、1年307名) この年、校内に同窓会が生まれ、剣道・柔道・陸上・野球の4部を設け、教職員・在校生の体育向上をはかる。 |
明治28 (1895) | 2月 同窓会第1回大会(4部の校内大会)開催。11月に第2回大会を開催。 5月 西新の現校地を購入(20,867坪、12,393円17銭8厘) |
明治29年 (1896) | 夏目漱石来校。 |
明治30 (1897) | 4月 福岡県中学修猷館と改称。現在の帽子の型が決まる。(中学校令改正) |
明治32 (1899) | 4月 黒田家の補助を離れ、純然たる県費支弁の中学校となる。 7月17日 大名町から西新町新校舎へ移転す。 |
明治33 (1900) | 4月 福岡県立中学修猷館と改称、生徒定員600名。 11月 化学実験課外指導始まる。 |
明治34 (1901) | 1月21日 西新町校地内に寄宿舎西寮竣工、大名町より移転す。 8月 在校生代表、大学在学中の先輩広田弘毅等と協議の末、同窓会雑誌部を創設。 12月5日 同窓会雑誌第1号発行、年3回発行とする。 この年、同窓会庭球部創設。 |
明治35 (1902) | 4月 6カ月間の補習科が設置され、卒業生中34人が入学。 この年、はじめて卒業生名簿が作られた。 |
明治36 (1903) | 2月 日露戦争勃発。卒業生・教職員も続々出征。生徒は日夜出征兵士見送り等に多忙を極めた。 8月 寄宿舎に電気灯ともる。 明治39 (1906) 7月 同窓会端艇部創設。(過去3年間、全生徒各7銭を毎 |
明治37 (1904) | 7月 同窓会端艇部創設。(過去3年間、全生徒各7銭を毎月醵出しイキ・チヨ・モミヂ3艇を新造) 8月 一般生徒の乗艇開始。(明治41年から全校の競漕実施)水泳部創設。全校の水泳指導始まる。 |
明治39 (1906) | 3月 第19回卒業式。卒業生100名。 【式次】 午後1時一同入場、館長開式の辞、卒業証書授与、館長誨告、知事代理告辞、卒業生総代答辞、在学生総代祝辞、5カ年間皆勤優等生1名に(教職員より)賞品贈与、卒業生数人、5カ年間に修得せし所を壇上で披露〔孟子「魚我所欲」講読・英語で5年間の回顧・物理化学実験〕、閉式、来賓・卒業生父兄・卒業生に、別室で茶菓のもてなし、散会。(この形式が数年続く)玄関前に大蘇鉄を記念樹として植樹。 4月 生徒定員750名。 |
明治40 (1907) | 3月 第20回卒業式。卒業生1,000名を超す。卒業生醵集金若干円を西村館長に委託、西村奨学金生まる。 4月 1学年入学志願者703名、合格者147名。 |
明治41 (1908) | 前年から1・2年生徒が毎日放課後、車力で祖原山から赤土を運び運動場整地。この年、車力をふやし、全学年生徒がこれに当たる。 |
明治42 (1909) | 11月 第1回文芸会を終日寄宿舎食堂で開催。54題、82名登壇、弁論、英語対話、地理・歴史・物理・化学・博物・数学の研究発表、論説発表、即席揮毫等あり、年々回を重ねる。 |
明治44年 (1911) | 2月2日 背振山頂まで往復雪中行軍(夜11時学校発・翌夕4時帰校)。このような行軍は大正時代にも何度か行われた。 |
明治45年 (1912) | 5月 職員生徒から寄贈図書を募り、264冊を得て、図書館を開設。 9月13日 乃木大将追慕会を開く。後、太宰府夜行軍が始まり、昭和18年まで続く。 |
大正3年 (1914) | 5月30日 創立30周年祝賀式。卒業生から菁莪堂が献堂される。 |
大正4 (1915) | 7月 福日主催九州中等学校武道大会で柔道6年、剣道3年、連続優勝。 8月 第一回全国中等学校武道大会で柔道部、全国優勝。 |
大正9 (1920) | 館歌制定、修猷ラジオ倶楽部発足し、ラジオ組み立てを始める。 |
大正12 (1923) | 3月 福岡県中学修猷館と改称.5月30日 創立40年、卒業生三千人祝賀会。この年、ラグビー部創設。 |
大正14 (1925) | 4月 同窓会の名称を学友会と改める。修猷科学研究会発足。 11月 第1回修猷理科展開催(玉屋・松屋百貨店を会場として、昭和11年まで続く) |
大正15 (1926) | 3月 寄宿舎廃止。 6月 県立福岡中学校全焼。本校教室の一部を提供す。 10月 本校学友会、福岡中学校復興慈善音楽会を催し、2,058円余を同校に寄附。 この年、地歴同好会、籠球部、排球部創設.幸田栄三郎〔5年生〕極東オリンピック(上海)で卓球単に優勝。 |
昭和2 (1927) | 9月 水泳プール開設。 |
昭和3 (1928) | 1月 ラグビー部全国大会初出場。この年弓道部創設。 |
昭和5年 (1930) | 12月 学友会雑誌の誌名を「修猷」と改め、年2回発行を年1回とする。 |
昭和6年 (1931) | 5月 5年生、朝鮮に旅行。 11月 ラグビー部、佐高大会で3年連続優勝。 |
昭和8年 (1933) | 9月17日 館旗制定式。 |
昭和9年 (1934) | 5月 創立50周年記念式典。 |
昭和10年 (1935) | 1月 雨天体操場・剣道場焼失。 3月6日 広田弘毅〔明31卒〕内閣総理大臣に任ぜらる。 5月 5年生満鮮に旅行。生物部「郷土の自然」第1号を発行。 6月 金子堅太郎伯爵来館、修猷館の再興期を中心に、館の歴史について講演す。 7月 柔道部福日大会で優勝。 8月15日 葉室鐵夫選手〔昭10卒〕オリンピック・ベルリン大会200米平泳で第1位。 11月 体育館落成。 |
昭和11年 (1936) | 2月11日 本館新築第1期工事完成。 |
昭和12年 (1937) | 8月 古賀陸軍病院敷地の整地に勤労奉仕。 11月 ヒトラー・ユーゲント一行31名来校。本校生徒と交歓。 |
昭和13年 (1938) | 4月 本館新築第2期工事完成。 8月 陸軍墓地敷地勤労奉仕。 |
昭和14年 (1939) | 1月1日 粕屋郡萩尾高原に学校林を設置。 3月 3年生、扁柏3万本植える。 7月 2泊3日で第1回除草作業。ラグビー部、明治神宮大会に出場。 |
昭和15年 (1940) | 7月 報国団結成(校友会の戦時体制化)。萩尾学校林第2回除草作業。 9月 4年生、5年生芦屋飛行場整地作業に勤労奉仕。(食料増産に学徒動員。小学校を国民学校と改称。米英に宣戦布告。) |
昭和16年 (1941) | 10月 中野正剛〔明38卒〕自刃。 (女子学徒の戦時動員強化、学徒体育競技全廃) |
昭和18年 (1943) | 7月 1年生だけ授業、2年生以上は各地の軍需工場に動員。 |
昭和19年 (1944) | (6月19日福岡市空襲を受け大火発生.8月15日終戦) 9月 授業再開(食糧・衣料乏しく教科書・紙・文房具なく、教育の方針も確立せず)。 10月 生物研究部、ラグビー部復活。 |
昭和20年 (1945) | ラグビー部第1回国民体育大会に出場。 3月 生物研究部「生物の世界」第1号を発行。 11月3日 修猷館同窓会発足。 |
昭和21年 (1946) | 4月 新入生を募集せず、新制高校への移行準備。 6月 修猷新聞創刊。 10月 修猷文化展開催〔第1回文化祭〕。 |
昭和22年 (1947) | 4月 新入生を募集せず、新制高校への移行準備。 6月 修猷新聞創刊。 10月 修猷文化展開催〔第1回文化祭〕。 |