天保5年(1834年) 第11代の封を継ぐ。長溥は特に学問奨励に心を用い、常に新文化に注意を怠らず、洋学導入に努め、藩の子弟の教育に終生絶大な熱情を傾けた。治封35年、その間、私金を以て多数の優秀な藩士を江戸・大阪あるいは長崎に遊学させ、さらに海外にも留学生を派遣した。後に修猷館の再興に尽力した金子堅太郎も、米国に派遣された藩校修猷館出身の青年藩士の一人であった。
明治元年(1868年) 6月 居館の一部をさいて学校文武館をおこし、進歩主義に則って国学・儒学・算術・武芸を修めさせた。
明治18年(1885年) 1月 侯爵に叙せられ、生活に苦しむ旧藩士救済の方策として、「学校設立が最も有効かつ黒田家の恩顧が末永く及ぶ道である。」という金子堅太郎の献策を採用して、修猷館再興のために尽力した。金子堅太郎と県当局及び福岡の旧藩士との種々協議の末,藤雲館の校舎・什器一切を黒田家が購入し藤雲館を廃館して、そのあとに修猷館を再興することが決まった。
黒田長溥