嘉永6年(1853年)現在の福岡市中央区鳥飼生まれ。藩学修猷館を出た後、明治4年(1871年)黒田長溥公の援助で団琢磨とともに米国ハーバード大学に留学。帰朝後は伊藤博文を助け、大日本帝国憲法の制定に最も大きな功績を残した。
また、ハーバードの学友であったセオドア・ルーズベルトの支援を得て、日露講和に奮迅の活躍をした。九州大学の誘致、八幡製鉄所の設置、さらには「福岡県立英語専修修猷館」再興の大恩人である。
伊藤内閣で農商務相、司法相を務める。
昭和17年(1942年)90歳で逝去。
ポーツマス講和会議 明治38年(1905年)
前列中央 金子 堅太郎
前列 左 小村 寿太郎
(飫肥市 小村寿太郎記念館所蔵)
藩学修猷館からハーバード大学へ
嘉永6年(1853年)旧暦2月4日(太陽暦3月13日)に福岡藩士・金子清蔵の長男として生まれた。幼名を徳太郎。
9つの年に修猷館に入り、明治3年(1870年)に藩命により、東京に留学する。ところが明治の世は既に、藩学修猷館で修めた漢学の才ではなく、洋学を必要とする時代となっていた。明けて明治4年(1871年)7月に廃藩置県が実施されたことで、藩の留学生として東京に来ていた金子は学費のあてを失った。普通であれば、途方にくれて田舎に帰るところだが、挫けなかった金子はやはり傑物である。同郷の知人を頼り、「私は漢学の生徒で東京に来たが、もう学資はない。しかし東京に留まってこれから英学をやりたい。そうして世界の大勢を研究して、わが国の国民である以上は何か国家のために働きたい。国に帰っても仕方がない。学僕でもよいので、是非置いてください」と頼み込み、毎日司法省に通っては英語を習い始めたという。逆境をバネにかえ、全く新しい学問にチャレンジするとは、恐るべき向学心である。
同年11月、渡米する旧主・黒田長知の随行員として、金子は後に『三井の大番頭』と呼ばれる團琢磨とともに選ばれている。この時、長知の父で、旧福岡藩主・黒田長溥は「アメリカに行ったら、専門の学問を何か一つ選んでしっかり学んで来い。5年かかろうが10年かかろうが、学資は自分が面倒見るから何の心配も要らぬ。その代わり一つの学問を修めてくるまで帰って来るな」と励まして送り出した。
金子は團とともに、そのまま学問のため米国に留まったが、英語を学んでも通じなくては何もならない、と考え、基礎からしっかり学ぶため、ボストンの小学校から英語を学び、本格的な英語習得に努めた。明治9年(1876年)ハーバード大学法科大学に入学し、明治11年(1878年)に同大学を卒業する。帰国後は薩長閥に属していなかったこともあり、金子は職にありつけぬまま、しばらく東京大学予備門の講師を務めることで糊口をしのいだ。
ようやく明治13年(1880年)に元老院権少書記官に採用され、各国憲法の調査にあたった。その後、第一次伊藤内閣の総理秘書官に就任。伊藤博文のもとで明治22年(1889年)に公布された帝国憲法の起草制定に参画し、立憲国家日本の誕生に大きな足跡を残した。
日露戦争の蔭の立役者
金子堅太郎は司法の分野だけでなく、外交官としても卓越した力を発揮した。日露戦争の開戦当初、金子は厳正中立の立場にあったアメリカを友好的中立国とし、戦争講和の調停役を引き受けさせる、という政府の密命を帯びて渡米した。このとき、戦費調達や講和会議のためにはアメリカの協力が絶対に必要であったが、アメリカとロシアの結びつきは決して弱いものではなく、大変困難な任務であった。
しかし、一筋の光明は金子の人脈であった。金子はハーバード大学留学後、数回の渡米によって、多くの人脈を構築しており、なかでも最も強力な人脈は、当時のアメリカ大統領セオドア・ルーズベルトであった。共通の知人を通じて、若年の頃に知り合った二人は、同窓生という信頼感もあって意気投合し、金子の帰国後もクリスマスカードや、手紙をやり取りすることで親しく交際を深めていたという。
金子がホワイトハウスを訪問した折には、大統領自ら廊下に出迎え、親しく腕をとった上、先客を差しおいて執務室に招き入れたという異例の歓迎ぶりからもその親しさを窺い知ることが出来る。そのルーズベルト大統領の助言もあり、金子はアメリカ各地のハーバード大学の同窓会組織を利用した。当時、金子は日本ハーバード倶楽部の会長でもあり、各地のハーバード出身の有力者と誼を通じた上で、巧みな宣伝広報活動を展開した。敵国ロシアの名提督マカロフ中将戦死に際した、哀悼の意を表した追悼演説は、その粋とも言うべきものである。金子はその分厚い人脈と冷静沈着な弁舌を駆使することによって、アメリカの対日世論の好転に大きく貢献した。そして、ルーズベルトは親しい友人のために、日露戦争講和に熱心に力を尽くしてくれたのである。
憲法制定と日露戦争の勝利が明治日本にとって、どれだけ大きな影響をもたらした国家事業であったかを類推すれば、この時に活躍した金子の存在が、如何に国家にとって大きな存在であったかがわかるのではないだろうか。若き日の「何か国家のために働きたい」という決意を金子は存分にかなえたのである。
修猷館再興に奔走する
金子堅太郎の功績は、地元福岡県にとっても大きなものである。九州大学の誘致や官営八幡製鉄所の創設にも深くかかわっている。その一連の功績の中でも、金子が最も心血を注いだのは、本人が「自らの生みの親」と称した母校・修猷館の再興であった。
教育で身を立てた金子は、郷土の教育振興に最も心をくだいた。当時の福岡県では、財政難もあって中学校を全廃していたが、「福岡の発展は教育の充実から」という観点に立った金子は「修猷館を再興し福岡の子弟に充分な教育を施せば、立身してその親族故郷に至るまでその余沢を受けることがかなうであろう」という意見を黒田長溥に建白した。郷土の教育荒廃に心を痛めていた長溥はその意見を喜び、黒田家の私財から当時の金で4万5千円もの大金を拠出した。金子はその資金を手に、年末年始の休暇を利用して福岡に赴いた。県令や地域の有力者と折衝し、修猷館再興に奔走したのである。結果、経費は黒田家の全額支弁とし、福岡県立ではあるが、学校の名称も修猷館の名を用いることが決まった。そして、明治18年(1885年)5月30日に修猷館は再興したのである。
修猷館気質と金子堅太郎の遺言
この時、人材育成という修猷館再興の趣旨に賛同した県民からの寄付金も多く寄せられた。その後もさまざまな形で寄付、援助が続いている。金子の熱意を触媒にして、黒田家と郷土の人々の力を糾合することで、修猷館は再興したのである。そのことを知っていた当時の学生は、学問が自己の立身出世のためだけではなく、郷土の輿望に応えるものであるという矜持を持っていた。その誇りと自覚が、広田弘毅、中野正剛、緒方竹虎、安川第五郎に代表される、国家有為の人材を輩出する骨太な修猷館気質を育んだのである。さらに言えば、修猷の学生はその誇りを口伝えに伝えて、修猷魂を伝承してきたのである。
金子の修猷館最後の講演は、昭和11年(1936年)84歳の時である。講演をしめくくった「将来国家有為の人物になるという決心を以って学ばれんことを希望して」という言葉は、修猷の若者に向けた金子堅太郎の遺言として、今も生き続けているのである。
(文章は、平成3年卒の田上貴章氏より寄稿いただきました。)