竹田家はもともと京都の公卿の出で、定通に至って初めて「竹田」を姓にした。定通は中納言の位まで進み、その子孫は代々京都で医者を業としていた。十代目の定頼が寛文元年(1661年)に初めて筑前(福岡)に来て、筑前黒田藩の第三代・光之公の客分として仕えたが、病死したためその妻は京都に戻り、定直(福岡での一代目)が生まれた。なお、父の定頼は光之公とは又従兄弟の関係になる。
第一代の定直は寛文2年(1662年)二歳の時に祖母とともに京都から筑前福岡に来て、光之公に拝謁し、十五歳になって光之公に仕え、儒学者・貝原益軒の弟子となって朱子学を学んだ。光之、綱政、宣政、継高の四君に仕えて三百石を賜ってその間数十冊の書物を著し、朝鮮通信使の応接を行い、貝原益軒と共に藩命による『筑前国続風土記』と『黒田家譜』の編集や校正に携わった。通常の仕事は藩士に儒学を教えていた。六十四歳で辞職して牛頸に戻り、八十五歳で没するまでは書物を書き、平野宮の右隣に笛塾という朱子学を教える塾を開いた。その笛塾の創設やその後のことは記録が定かでない。
その後九代までは黒田藩で殿様や藩士に朱子学を教えていた。第四代定良は、四代の藩主に仕え、天明4年(1784年)藩主・斎隆公の命令で東学問稽古所(修猷館)の総授持(館長)となり三百二十石を賜った。そして牛頸では通勤に遠くて不便なので元の平和台野球場の向かいに屋敷を賜り、そこからお城に通っていた。第六代定夫のときに二十石の加増があり三百四十石となった。
以後第八代までは修猷館の館長を勤めた。
第九代の定猗は号を謙窓といい、修猷館の教官のあと館長となった。謙窓は明治2年病気のため辞職し、明治3年那珂郡中原村に移住したが、明治7年牛頸村に戻った。その後県内各地の学校を歴任し、明治20年に再び県立中学校修猷館の教官となった。明治22年11月23日、五十七歳で没し、牛頸に葬られた。墓は牛頸の堂ノ本、竹田家の裏の山にある。
第十代修吉は、やはり教育家として生涯を過ごし、初代牛頸下等小学校の校長を勤め昭和20年に死去した。
第十一代博吉は教師の後、裁判所の判事を勤めたが、昭和40年に死去した。
現在第十二代は竹田準が竹田家を代表している。
尚、『筑前国続風土記』と『黒田家譜』の原稿及び貝原益軒、荻生徂徠その他の書簡は昭和35年3月、福岡県文化財に指定され福岡県立図書館にある。その他四千点以上の古文書も同館に寄託されている。
(文章及び写真は、竹田家第十二代竹田準様より提供をいただきました。)
竹田定猗(謙窓)
竹田修吉
竹田家の菩提寺 萬行寺
竹田家の功徳を讃える石碑
(大野城市平野神社横)