修猷館第10回卒業生(明治31年)。明治11年2月14日福岡市鍛冶町の石屋の長男として生まれる。大名小学校、修猷館を経て一高、東大法に進み外交官となる。
昭和8年(1933年)斎藤実内閣の外務大臣に就任し,続く岡田啓介内閣にも留任した。昭和11年(1936年)2月、二・二六事件によって岡田内閣が総辞職したのち,三月五日,内閣総理大臣となった。本校出身初めての首相であり,福岡県出身としても,初めてのことである。太平洋戦争後極東軍事裁判において唯一文官のA級戦犯として他の6人の軍人と共に処刑された。主な罪状は、日中戦争開戦と南京大虐殺の責任であった。廣田氏は外交官時代から一貫して平和外交をねばり強く進めたが、当時の軍部は統帥権を盾に暴走し、尽く廣田首相の融和路線、不拡大路線を妨害し戦争拡大へ走った。しかし裁判において廣田弘毅はいっさい弁解をせず、責任を一身に引き受けた。この間の経緯については城山三郎氏の著書「落日燃ゆ」に詳しい。廣田夫妻の墓は聖福寺にある。
扁額「麗如華」(麗しきこと華の如し)
廣田弘毅像
(福岡市美術館南側国体道路沿い)
『ある日の廣田外相』 (上野山清貢 作)
寄贈頂いた経緯
平成13年6月、廣田弘毅氏のお孫さんの弘太郎氏より,祖父の肖像画「ある日の廣田外相」を母校に寄贈したいとの申し出があり,作品が6月18日に到着した。この作品は昭和9年に当時外務大臣であった廣田弘毅氏をモデルに,北海道出身の上野山清貢(うえのやまきよつぐ)画伯が筆をとり,その年の帝展に出品されたF80号の油絵の大作である。画面裏面に「昭和九年十月 於外務大臣公邸」[上野山清貢筆]の文字が見える。戦前は東京原宿の私邸に所蔵され,戦後は藤沢市鵠沼の別荘に長く保管されていた。その間昭和46年北海道立美術館での個展に出品された以外は誰の目にも触れなかった。今回弘太郎氏が、元首相の没後54年を経て,母校に置いて後輩諸君に見てもらうことが,より有意義であろうと思い立たれ寄贈いただけることとなった。
上野山清貢
明治22年北海道江別で生まれる。小学校の美術教師を経て、23歳で上京、太平洋画会研究所に学び、黒田清輝、岡田三郎助に師事する。大正13年、35歳で第5回帝展に初入選、その後連続3回特選を受賞し昭和4年に委員となり、41歳で帝国美術院委員。昭和9年(1934年)45歳の折り、「ある日の廣田外相」を描き第15回帝展に 出品する。戦後は北海道に帰郷し北海道風景や動物を描いた。昭和35年70歳で没。
作風は後期印象派やフォービズム(野獣派)のブラマンク、エコールドパリのスーチンらの影響が色濃い。激しいタッチと色使いで対象はしばしば大きくデフォルメ(変形)されている。どのような経緯で廣田弘毅外相(当時)の肖像を描いたかは不明だが、他に肖像画としては「佐上北海道長官像」、戦後に「鳩山氏像」「瞬間の鳩山さん」「赤松 博士像」などがある。
本作品は上野山という激しく対象を見据える作家と、廣田外相という2つの個性ががっちりと組み合ってできた傑作肖像画である。ぐっと強く閉じられた口元や組み合わされた両手、眉間のしわなどに外相という重大責任を帯び、難局に立ち向かうモデルの強い意志と、それでもあくまで端正で暖かな雰囲気は彼の外柔内剛な人柄をよく表現している。よく似合った背広姿は、その後唯一の背広組(文官)として、罪を背負われた廣田 氏の象徴のようにさえ思われる。