修猷館の名は 『尚書(書経)』 の一篇「微子之命」の中の「践脩厥猷」を典拠とする。
「践脩(修)厥猷」は「厥の猷を践み修む」と読み、「その(成湯の偉大な)道を実践し修める」ということである。「微子之命」は、周の成王が微子 を宋の国に報じた時の誥命であり、殷の祖である成湯(湯王)の猷を修めて有徳の誉れ高い微子に、永く殷の祭祀を継承させようとしたものである。
原文は次の通り。
「 嗚呼、乃祖成湯、克斉聖広淵。 皇天眷佑、誕受厥命。
撫民以寛、除其邪虐。 功加于時、徳垂後裔。
爾惟践脩厥猷、旧有令聞。 ・・・・ 」
嗚呼、乃の祖 成湯、克く斉聖広淵なり。皇天眷佑し、誕に厥の命を受く。
民を撫するに寛を以てし、其の邪虐を除く。功 時に加はり、徳 後裔に垂る。
爾 惟れ 厥の猷を践み脩め、旧しく令聞あり。・・・・
ああ、汝の祖である成湯(湯王)は慎み深く賢明で度量は広く物事に通じていた。そこで大いなる天はそれを助け、(成湯は)天命を受けた。民を寛大な政治によって治め、(桀の)悪虐を除いた。功業は時にいや増し徳は後世の子孫にまで及んだ。汝はその成湯の猷をふみ行って、久しく立派な評判がある。・・・・
六光星の由来
伝統に輝く六光星の徽章は明治27年、日清戦争期の興隆する国運を背景に制定された。その由来は朱舜水の「楠公賛」の冒頭の句「日月麗乎天」によるものであって、日月と輝きを同じくする星の光に将来を荷う若き青年の希望を託したものである。なおこの星は、北極星をかたどったものであり、永久にゆるがぬ人生の指針をこの星に仰ぐという意味がこめられているとも言われている。
孔子聖像
天明4年(1784年)2月6日藩学修猷館開校の儀式の際に掲げられたもの。その後、毎年1月8日の開校式には講堂に掲げられた。絵師は狩野典信(寛政2年没)。開校にあたり、時の家老大音伊織が藩へ差し出したものである。