修猷山脈 【甘棠館】

   ホーム  >  修猷山脈 【甘棠館】

甘棠館

扁額(九州大学所蔵)

亀井南冥肖像画
(能古博物館 [亀陽文庫] より)

亀井昭陽肖像画
(九州大学所蔵)

亀井南冥生誕の地
(西区姪の浜3丁目14-13)

『甘棠館』 扁額と亀井昭陽肖像

福田 殖  中国古典 助教授(当時)

 甘棠館かんとうかんは福岡藩にあった藩校の名前である。当時、福岡藩には東西両学問所があった。東学は修猷館と呼ばれ、郭内大名町(現在平和台バス停付近)に、西学は甘棠館と呼ばれ郭外唐人町(現在唐人町バス停北側)に設けられていた。
 東西の学問所は互いに競い合って藩学発展に寄与するはずのものであったに相違ない。しかしながら西学、甘棠館は寛政10年2月1日に発生した唐人町の大火により類焼し、以後再建されることはなかった。藩校が廃校になるのには、それなりの理由があったのであろう。それにしても、わずか14年間でその生涯を閉じざるを得なかった甘棠館は、悲運の藩校と言うべきであろうか。
 この時を境に徂徠学を主とする亀門の学(亀井南冥・昭陽を中心とする学問)は、藩学の中から姿を消すこととなる。以後、亀門の学は私塾の中で守り継がれていく。私塾亀井塾は宝暦12年に開業し、慶応4年に廃業するまで100年に及ぶ期間続いた特色ある私塾である。亀井塾には遠方から来学する者も多かった。秋月の原古処や日田の広瀬淡窓・旭荘兄弟らは皆この塾で学んだのである。
 甘棠館が開館するに当っては亀井南冥(1743-1814)の力があずかって大きかった。南冥は安永7年藩主治之の時に抜擢されて藩儒員兼医員となると藩学校建設の必要を建白した。5年後の天明3年藩主斉隆の時に至り、宰臣等の斡旋により、藩校、東西学問稽古所が創設されることにより、翌年(1784)2月に両学問所が完成。西学(甘棠館)は2月1日に、東学(修猷館)は2月6日に開館した。東学は貝原益軒の学統を継ぐ竹田定良(1738-1798)が学頭となり、朱子学を主とし、西学は南冥が学頭となり、徂徠学を主とした。
 当時、南冥の文名は藩の内外に高く鳴りひびき「関西無双」と評せられたほどであり、開講以来相当な賑いをみせ、やがて西学の勢いは東学を圧するようになっていった。この頃の学生は東西に拘らず随意に選んで入学することができた。
 甘棠館は藩校であるから藩士の子弟を教育した。当時の頽廃した士風を矯正し、かつ藩社会における忠実有能な官僚養成が主眼であったようである。南冥の書いた「学問稽古所御壁書第一条」(一名「甘棠館開講之日教授亀井主水演説之書」)には「忠孝の道を宗(むね)とし、礼義廉恥を弁(わきま)へ身持覚悟宜しく、先々相応に御用に相立候様弟子の輩を相導可申事」とある。
 甘棠館開館の同月23日には志賀島から、あの有名な「漢委奴國王」と印刻された金印が発掘された。南冥は鑑定を依頼され、後に『金印辨』を書いている。この頃が南冥の生涯で最も得意の時期ではなかったろうか。甘棠は果樹の名で、やまなしの類とされる。『詩経』に人民が召伯の徳をたたえる歌、甘棠詩がある。南冥は前藩主治之侯の園中から甘棠一樹を移植し、館名としたごとくである。
 寛政二年いわゆる寛政異学の禁が布告され、これがやがて各藩に影響を及ぼしてゆく。最初は南冥自身が目標にされた。南冥は寛政4年7月に失行の故(詳細は不明、政治的意図があったと思われる)をもって職禄を奪われ閉居する身となり、代りに長男の昭陽(1773-1836)が儒官として家督を相続した。それも甘棠館が焼失するとこれを機に廃校となり、昭陽も儒官を免ぜられて平士におとされた。かくして藩学から徂徠学派が締め出され、益軒の流れをくむ朱子学派一統の時代となった。甘棠館の学生は修猷館に統合せしめられた。
 一時的にせよ、学派のちがう藩校がそれぞれ学問を競った現象は非常に珍らしいケースである。似たものとしては、廣島藩学問所(後の修道館)において天明2年から寛政2年まで頼春水が西堂で闇斉派朱子学を、香川南浜が東堂に徂徠学を講じ、学生は多く東堂に集まり南浜の古学派が優勢であった例があるぐらいである。
 福岡藩異学の禁ともいうべき学問的嵐によって亀井一族は官界では不遇を余儀なくされる。しかし福岡藩の支藩秋月藩主から南冥昭陽父子は手厚く好遇された。南冥の主著『論語語由』は秋月藩から公刊されている。また亀井一族は仲むつまじく、南冥、その弟の僧曇栄、長男昭陽、次男大荘三男大年を世人は親しみをこめて「五亀」と呼んだ。また昭陽の長女少栞は秋月の原采蘋と名を等しくする才媛であり、次男の暘州は幕末の激動期をよく乗り切って亀井塾を守った。100年に及ぶ亀井塾の存在価値ははかり知れないほど大きい。九州儒学界の隆盛に大きく貢献した亀井塾の在存は忘れられてはならないと思う。
 南冥、昭陽父子は衰退期の徂徠学を西国九州において光彩を放たしめた人である。南冥は性格が豪放で、経世の志をもち、直言してはばからない、いわゆる「儒侠的狂狷」の精神の持主で、既成の規範にとらわれないところがあった。昭陽も父と同じ気質であったであろうが、昭陽20歳の時に父南冥の廃黜の事があり、26歳の時に軽格の平士におとされるなど人生の辛酸をなめたこともあって「昭陽ハ行状謹厳ナル人ナリ」と淡窓の評があるような人格を形成したごとくである。学問・文章共に父にまさっていたが、文名は南冥の方が高かった。南冥・昭陽父子の関係は、よく伊藤仁斎・東涯父子にたとえられる。
 「甘棠館」扁額は、昭和20年代後半に亀井昭陽肖像と共に玉泉館所蔵に帰したもの。今のような扁額仕立てにしたのは、玉泉館に帰属以後のことで、もともと巻いて保存してあったとのことである。往時、甘棠館に掲げてあったものと思われる。甘棠館の三字は清原宣條(1720-1791)の書いたものであるが、いかにも公家流の書である。
 亀井昭陽肖像は福岡藩お抱え絵師尾形氏第八代の愛遠のえがいた昭陽肖像を模写したものらしい。次のような断り書きがある。「亀井昭陽先生画像一幅 尾形愛遠謹画 太田善作氏所蔵ヲ影写セシメ寄贈仕候也 昭和2年9月1日 亀井千里殿 福岡県立図書館長 伊東尾四郎」。千里氏は昭陽の曽孫。昭陽肖像は福岡香江家(尾形愛遠画)と五島穎原家(尾形守連画)に伝えられたものが残っているが、太田善作氏所蔵のものについては、つまびらかにしえなかった。香江家に伝った肖像画には文政12年(昭陽57歳、この年次男暘洲に家督をゆずる)10月2日の尾形愛遠の署名がある。玉泉館所蔵のものも、この前後のものと思われる。この肖像画は5歳の時に罹った天然痘の痕まで写してあり、昭陽の謹厳な人柄がよくしのばれるがそれとともに不遇の中で、亀門の学を大成した昭陽の学者としての気迫が、すぎ去った沈黙の世界のかなたから静かに伝わってくるのを覚える。


-1980.10.30. 九州大学教養部報より-

 ホーム
福岡県立修猷館高等学校〒814-8510福岡県福岡市早良区西新6丁目1番10号
Tel:092-821-0733 Fax:092-822-6564
福岡県立修猷館高等学校
〒814-8510福岡県福岡市早良区西新6丁目1番10号
Tel:092-821-0733  Fax:092-822-6564
Copyright(C)2011 Shuyukan High School . All rights reserved